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日田に於ける瓦の様相

 大分県は九州の東北部に在し、日田地方はその大分県の西方北寄りに位置する。大分県は豊後の国主大友家の後は「小藩分立」により8藩に分割される。日田は太閤蔵入地を経て徳川幕府の天領となり、他地区とは異なる独自の発展をみる。天領であったことで各地への交通路は日田街道と呼ばれる数本の道路が走るが、地形的には周囲を山岳地に囲まれた盆地で、福岡、久留米方面へと筑後川が流水する。文化、経済の交流は筑前、築後方面が主であったのである。

 よって大分県内にあって諸々の事柄にても他地区との違いが出ている。特に瓦の紋様に於いては大半が他地で類を見ないものである。
 では日田の瓦葺きは何時頃から葺かれるようになったか。
 この検証に先立ち、隈・豆田地区の災害(特に火災)について検討する。記録に残るのは隈町の元禄6年(1693)に始まる以下表記の通り。(参照:田中晃著 隈町災害史より)


以上明治期までの両地区の大火を列記した。

表記の通り、一度火災になると両地区とも川風に煽られて広範囲に数多くの軒数が類焼したことが判る。隈地区では豪商や有力者の居宅及び土蔵等が瓦葺きであり、他の一般家屋はワラブキ屋根が主で類焼範囲も広く、速度も速く燃えたことが判る。特に明治39年の出火元はワラ葺きの建物であり、瓦葺きが普及しだしているがワラ葺屋根が残っている(ワラブキと記載あるも、茅葺であったであろう)。豆田地区に於いても同様である。明和の火災時の草野家でも仏間棟は茅葺きであり、土蔵類が瓦葺きであった。この火災の翌年から安永年間にかけて新原瓦が大量に出回る。豆田の惨状から火災に強い居蔵造りの建物へと発展していく。明治末頃でも茅葺屋根は残るものの、ほぼ瓦葺になったと言える。つまり徐々にであるが、建物は瓦葺きへと葺き替えの進行が見られる。現在でも茅葺きや杉皮葺きの家屋が、隈で2棟、茅葺きにトタン貼り家屋も隈・豆田合わせて数棟。周辺部に行くと相当数望見できる(家並みが疎らであり火災が起きても単一となり、類焼が少ないことと、気候風土からも住み良いことがあるのであろう・・・居蔵造りを除けば叉首造りは小屋裏の空気層で外部との冷気・暖気が遮断され、室内温度は一定される)。


隈町位置図(明治9年頃)


豆田町位置図

日田地方に於ける現在までに知り得た瓦の分類を試みた。まず瓦当文様のある軒平瓦で検討を試みる。
ここでは軒平瓦のうち、本葺型牝瓦を平唐草瓦、桟瓦葺型を唐草瓦と呼ぶが、昨今は一般に軒瓦と呼ばれるので軒瓦と区分表示する。また、軒丸瓦(巴瓦)と平唐草瓦のセット関係は多岐に渡り、それぞれの分類で検討した。













日田に現存する瓦の考察

 現存する瓦に於いて一番旧い年代は、富安家クンチョウ酒造北蔵に展示されている(チ)「鳥休伏間瓦」で「元禄15年(1702)中津瓦屋 弥七」のヘラ書きがある。クンチョウ北蔵は宝暦7年(1757)上棟と考えられる根拠とした袖瓦・軒唐草瓦(B-1、B-2)が残存している。(チ)の鳥休瓦は北蔵と口伝されるも上棟の55年以前であり、先代の建物の物かもしれないが定かでない。(B-1)と(B-2)の瓦は新原村産である。次に草野家座敷蔵が享保16年(1731)の上棟であり、この時の棟鬼瓦 イ(恵比寿・大黒)他(A-1~5)の丸・本平瓦等が葺かれていた。又、棟鬼瓦 ロ(恵比寿・大黒)は日本丸岩尾家隠宅の鬼瓦として所蔵保存されている。このヘラ書きに「享保21年2月(1736)瓦師 中冨 林右衛門」の銘が見える。形状も一致し、作成年は5年後であり、草野家では瓦師が所兵衛、半七、林右衛門3名であるも岩尾家では末席の林右衛門が1名で作成しているのである。明和9年(1772)5月は豆田一円を焼失する大火が発生する。草野家は享保の瓦葺座敷蔵と茅葺の仏間棟は焼残るも店棟や玄関棟は焼失する。仏間棟を残すことに全勢力を注いだのだろう。店棟から仏間棟への出入口は土戸の防火戸も設置されていた。屋根の茅を抜き捨て、建物を必死で守ったようである。屋根材を遺失してすぐさま明和9年(1772)8月の左袖瓦と安永2年(1773)12月の平瓦(C-1と2)が仏間棟等に葺かれた事がヘラ書きで判る。

豆田地区では2~3の土蔵等を残し、一面の焼野原となったことで、瓦の需要が増え、居蔵造りなど建築様式の様変わりが進行してくる。よって安永年間に新原村の瓦が一部の豪商や寺院などに使用された。草野家店棟には安永6年、7年(1777、1778)作の瓦で(e-9)の軒瓦は「新原 瓦師 儀右衛門」のヘラ書きで「5弁花卉2葉状文の中心飾り断続2単位2反転の線描にハ-ト型文に第3唐草は2段屈曲」の均整変り唐草文で二ツ巴文の小巴が付く。同じくこの瓦当文作品に安永9年(1780)富安家クンチョウ穀蔵の平唐草と年代不詳の西光寺平唐草瓦があり、富安家分は「新原 儀右衛門」。西光寺は「治右衛門」のヘラ書きである(e-7(ロ-2)、e-8)。また(c-3、4、5)は安永6年(1777)と(c-6、7、8、9、10)は安永7年(1778)で草野家店棟に在する平瓦であり(c-6、7)の瓦師は不詳であるが、他は新原 儀右衛門の作である。この他に草野家店棟の平瓦のヘラ書きで判読不明な瓦7点(その他1~7)内1点は新原瓦屋、儀右衛門(その他3)のヘラ書きがあり、店棟に使用瓦で安永7年頃と推察できる。また(その他9~13)など西光寺所蔵瓦は年代、瓦師のヘラ書きでなく、文字、人面絵や龍頭絵を描いた瓦。本堂の鬼瓦と伝わる寺紋の「三ツ茗荷巴文入り御所型足付鬼」は「寛政7年(1795) 瓦師 新原庄右衛門」(写真- ハ )も有る。

 長善寺に残る瓦には本平瓦・軒丸や丸瓦(写真 ニ ~ ル )には宝暦年間の10~12年(1760~1762)の瓦師名 新原 治右衛門や儀右衛門・嘉平次の名が見られる。
 長福寺玄関棟の鬼瓦(写真 ヨ )は「安永6年(1777)日田郡十二町邑 瓦師儀右衛門」のヘラ書き、他に炊事場棟の軒瓦、桟平瓦等(写真 ヲ ・ ワ ・ カ )には「天明6年(1786)新原嘉平次 ヲ 、瓦師 新原住高瀬嘉平次」のヘラ書きの瓦が葺かれていた。
 寛政年間に入ると、西光寺所蔵の平唐草(f-11(E-1)、E-2)鳥休伏間(カ)が「寛政7年(1795)」作で、富安家クンチョウ酒造の穀蔵平唐草(f-10、E-3、4、5)、軒丸瓦(ヌ)は「寛政10年(1798)」であるが、瓦師はいづれも「新原嘉平次」である。
 文政年間では「文政2年(1819)新原藤四郎作」の広円寺山門に葺かれていた鳥休瓦を始め、軒丸瓦4点も存品で連珠は7玉、12玉、15玉で尾長は60mmと同じ長さである。(広円寺 ソ・ツ・ネ・ナ)その外、西教寺本堂に存する左右鬼面瓦に「文政3年(1820)新原住高瀬氏藤四郎永重」(F-1、2)のヘラ書きが見える。富安家に於いては北蔵に保存の鳥休瓦がある「文政元年(1818)新原藤四郎作」(リ)と、穀蔵平唐草(g-13)「文政8年(1825)新原藤四郎」のヘラ書き、西光寺の平唐草(g-14)も「文政6年(1823)新原藤四郎作」とあり、瓦当文は「中心飾り半菊花卉状文 均整唐草波状文」と同一である。また(F-3、4)も「文政6年(1823)十二町村新原藤四郎作」と同じ瓦師である。
 ここまででも建築物の上棟と瓦製作年の不一致が儘ある。また正確な製作年不明であるが、他文献からの引用で16世紀末~17世紀前期と考えられる(a-1、2)。これに続く年代と思える瓦(b-3)・(c-4、5)が草野家と富安家より発見されている。両家や寺院等には16世紀中頃からの歴史があり、当初建物の瓦が増改築で再用されたことが充分に考えられる。また軒丸瓦で富安家クンチョウ酒造穀蔵には胴裏に底なし袋紐痕の残る軒丸瓦(ル)が見つかった。近世初期頃に製造されたものであろうか。この外胴裏の痕跡に叩き痕や木引痕の見える軒丸も見つかっている。

軒丸の小巴で左一ツ巴や二ツ巴という変わり種が草野家にある。草野家の一ツ巴(h-17)は湯殿(文化、文政期の上棟)で見つかり、瓦当文は「牡丹花卉状文 唐草3単位2反転巻込み 第3唐草は中央にしなやかに若芽が伸びる」広円寺山門平唐草(h-15)と草野家安永7年上棟の店棟平唐草(h-14)と同一文である。この外に隈山田家元禄12年蔵南棟(大正10年の水害にあう)から1個確認された。但し瓦当文は前者と同一でない。
また、二ツ巴(e-9)は店棟で富安家穀蔵、安政9年のヘラ書きや西光寺所蔵の瓦当文と同一で
ある。但し、西光寺の瓦師は「治右衛門」でニ家の「儀右衛門」と異なっている。この二ツ巴の小巴文は秋子想(f-12)で数多く見ることが出来る。瓦当文様は他家の瓦当文(f-10、11)とは似通っているが同一ではない。
 これらの瓦を考察するに、江戸初期からの日田
街道は四方に延びているも、距離的に近い中津や交通利便などから筑後、筑前(福岡・北九州)などとの交流物流が充分に考えられるものである。


山田家 軒瓦 一ツ巴


秋子想 軒瓦二ツ巴


以上ヘラ書きを有する瓦が数多く発見されている。しかし現時点での発見は寺院や一部の豪商の邸宅 と土蔵が主で、一般民家からは見当たらない。寺院は建替えに於いても先代建物の鬼瓦や書留めのある 瓦は再用せず、保管している。豪商宅等に於いては建物の建築年代よりも古い時代の瓦が葺かれていた り、ストック保存されていたりする。建替え時に前の建物の瓦を再用したものと思える。特に(a・b・ c)や(チ)・(ル)の瓦等は現存建物の年代より古いが前述の通り前身の建物の瓦と考えるべきであろう。

ここで窯元(瓦製造地)の推移を考える。年表、号 1 の「中津瓦屋弥七」の所在は判明しない。中津 から来たものであろうか。号 2~3 は瓦師中城村とあり慈眼山南裾の城内村田畑の粘土盤で製造したと 言い伝えられ、城町二丁目七番では昭和 30 年頃まで焼成していた(但し、ヘラ書きでは中城村と記さ れ城内村ではないことに疑義も残る・・・瓦師の住まいが中城村なのか)。号 4 の宝暦年間からは新原 村のヘラ書きが示す通り、十二町新原(徳瀬)で製造されたことが判り、文政年間までのヘラ書きがあ り、この間約 70 年間で幕末頃まで窯元はあったと思える。次に小迫瓦である。

小迫瓦の特長

小迫瓦の開窯の時代ははっきりとしないが 2 者は幕末か明治初頭と思える。1 者坂本窯(坂本亘氏が 481 番地に開く)は昭和 30 年に開窯し、36 年頃閉窯したと言われる。先の 2 者は赤尾楠吉氏と赤尾文 義氏の先祖が起業した。赤尾両家は元々兄弟であったとのこと。その居宅、窯場は楠吉宅が 85-3 番地 で窯場は 399-1 番地、文義宅は現在も立地している 1270(86-2)番地で窯場も一緒と言われている。 亘宅も先の番地で窯場も一緒とのこと。採土は小迫町中央の田んぼの粘土盤を採掘したという。現存す るストック瓦を収集受理することが出来た。瓦の寸法は小振りであり、形状はいぶし桟瓦であり、葺幅 は 255 型と 235 型の 2 種類で葺足は 120mm で決め、瓦寸法は幅 280×長さ 241 と幅 300×長さ 252 が現存している。桟平は深切り切り落しで裏には引掛等の突起はない。また軒瓦の瓦当文は現在の所 3 種類見つかっている。
内区の押型は木瓜文型に造り(n-24,25,26)は葺幅 255 型であり、中心飾りは珠点付半菊花卉状文 で唐草は蔓がゆるやかに伸び 2 反転の葉文(もしくは枝分かれ)を付けるも 3 点共葉文の位置が微妙に 異なる。又、(n-27,28)は葺幅 235 型であり、瓦当文も(n-27)が三ツ巴連珠 15 玉の小巴を付け、 中心飾りは五弁花卉状文の中心飾りに蔓がゆるやかに伸び上下 2 反転の葉文(もしくは枝分かれ)を付 けるも前記 3 点とは位置が異なる。また(n-28)は梅鉢文の小巴を付け、中心飾りは桃実文様に均整 の立浪文であり、桃太郎童話の絵柄を模したか、桃の精は悪霊を退散させる故事からかとも思えるし、 仙果としての効用、中国の西王母伝承の仙女から不老長寿を願う不損の建物と考えたのであろうか。

また明治から大正にかけては福岡県の城島瓦が進出して来る。日田清水町の住吉地区で明治 17 年か ら昭和 16 年頃まで住吉瓦(釉薬瓦)が焼かれる。これは諌山真吉(財津町)、諌山源市(清水町)両氏 が淡路瓦に師事した。わずか 57 年間であったが最盛時は 5 軒の窯元があり、原土は三和小学隣接の貞 清地区で採掘され、窯場は住吉公民館附近の地であった。この瓦も背面に引掛桟はなく、「ナジミ土」 置き葺きである。
日田にあった窯元は昭和 30 年代で全てが閉窯し、現在はない。昭和の戦後から神崎瓦(大分県佐賀 関町、古くは杵築、日出別府、大分から佐伯、竹田の一部にも進出した産地であった)が進出してくる も、年間の寒暖差は 40°C。1 日の差でも 10°Cを超すなど瓦にとっても過酷な地で凍てや割れ等が発生 して、使用出来る窯元も限られていた。昭和の中期から後半頃にはセメント瓦が葺かれたが経年と共に 劣化するため現在は製造されていない。近年では釉薬瓦の製作技術の向上と大量生産化の流れから、石 州瓦や三州瓦が葺かれている。

今後の課題として、隈町山田家、豆田町廣瀬家、諌山家(手島家)等の家屋や各寺院が未調査である。 改修等に追加調査出来るとまだまだ幅が広がると思う次第である。気に留めいただき、調査をされるか または、ご一報下さると幸甚である。